百人一首・記憶サポートツール|学習・暗記に役立つ無料ツール集
百人一首・記憶系ツール一覧
札流し・決まり字検索・語呂合わせ・クイズ形式など、遊びながら覚えるツールを掲載。
百人一首とは
百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは、鎌倉時代の歌人・藤原定家によって編纂された和歌集で、100人の著名な歌人による和歌を一首ずつ収録した日本の古典文学作品です。
恋や四季の風情、人生の機微を詠んだ短歌が中心で、国語教育や受験対策、教養としても幅広く親しまれています。現代では「百人一首かるた」として正月遊びや記憶ゲーム、学習教材としても活用され、年齢を問わず多くの人に親しまれています。
競技かるたと全国大会
百人一首を用いた「競技かるた」は、記憶力・反射神経・集中力を競う日本独自のスポーツであり、札を瞬時に取り合う白熱した対戦が特徴です。
毎年開催される「全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会」(通称:かるた甲子園)は、競技かるたの全国大会として知られ、滋賀県の近江神宮で実施されます。学生から社会人まで幅広い層が参加し、百人一首の文化的価値と競技性を高めています。
「ちはやふる」で広がる百人一首の世界
漫画『ちはやふる』(作:末次由紀)は、競技かるたを題材にした人気作品で、アニメ化・実写映画化を通じて若年層を中心に百人一首の人気を再燃させました。
作中では近江神宮を舞台にした大会が描かれ、登場人物の成長とともに競技かるたの魅力や奥深さが広く知られるようになりました。百人一首を初めて知るきっかけとして、教育や文化活動の現場でも活用されることが増えています。
このページのツールについて
当ページでは、百人一首の学習・暗記・競技かるたの練習に役立つ無料Webツールを多数掲載しています。
ツールはすべてブラウザ上で動作し、インストール不要・スマートフォン対応。語呂合わせ、決まり字一覧、札流しなど、記憶と理解を深めながら楽しく学べる機能を備えています。かるた初心者から競技者、教育現場まで幅広くご利用いただけます。
百人一首 全首一覧
以下に百人一首の全100首と、それぞれの出典・作者情報を掲載しています。
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秋(あき)の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)を荒みわがころも手は露に濡れつつ
天智天皇 てんぢてんのう(626~672 第38代天皇) -
春(はる)すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山
持統天皇 じとうてんのう(645~702 第41代天皇 天智天皇の皇女 天武天皇の皇后) -
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
柿本人麻呂 かきのもとのひとまろ(生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 人丸とも 三十六歌仙) -
田子(たご)の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ
山部赤人 やまべのあかひと(生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 三十六歌仙) -
奥(おく)山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき
猿丸太夫(生没年不詳 奈良~平安初期頃)の伝説的人物 三十六歌仙) -
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける
中納言家持(大伴家持 おおとものやかもち 718~785 旅人の子 万葉集の撰者) -
あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも
安倍仲麻呂 あべのなかまろ(698~770 遣唐留学生 唐の役人となり唐土で生涯を終えた) -
わが庵(いほ)は都のたつみしかぞ住む世を宇治山と人はいふなり
喜撰法師 きせん (宇治山の僧とされる伝説的な歌人 六歌仙の一人) -
花(はな)の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
小野小町(六歌仙・三十六歌仙の一人 伝説的な美女とされてきた 各地に伝説が残る) -
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
蝉丸 せみまる (生没年不詳 琵琶の名手とされる平安初期の伝説的人物 逢坂山に住んだという) -
わたのはら八十島(やそしま)かけて漕ぎいでぬと人には告げよあまの釣舟
参議篁 小野篁 たかむら (802~852 漢詩文に優れ『令義解』撰進者の一人) -
あまつ風雲のかよひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ
僧正遍昭 へんじょう (816~890)俗名良岑宗貞 桓武天皇の孫 六歌仙) -
つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞ積りて淵となりぬる
陽成院(868~949 第57代天皇 清和天皇の皇子) -
みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに
河原左大臣(源融 とおる 822~895 嵯峨天皇の皇子) -
きみがため春(はる)の野にいでて若菜摘むわがころも手に雪は降りつつ
光孝天皇(830~887 第58代天皇 仁明天皇の皇子 仁和の帝) -
たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいま帰り来む
中納言行平 在原行平 ありわらのゆきひら (818~893 平城天皇の孫 業平の兄) -
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
在原業平朝臣 なりひら (825~880 平城天皇の孫 伊勢物語のモデルとされる 六歌仙・三十六歌仙) -
すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひ路人目よくらむ
藤原敏行朝臣 としゆき (?~901年頃 三十六歌仙 能書家として知られる 藤原南家) -
なには(わ)がた短きあしのふしのまもあはでこの世をすぐしてよとや
伊勢 いせ (872~938年頃 伊勢守藤原継蔭の娘 三十六歌仙の一人) -
わびぬれば今はた同じなにはなるみをつくしてもあはむとぞ思ふ
元良親王 もとよししんのう(890~943 陽成天皇の皇子 徒然草・大和物語などに逸話が多い) -
いま来(こ)むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな
素性法師 そせいほうし (生没年不詳 平安前期 遍照の子 三十六歌仙 書家としても知られる) -
ふくからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐とい言ふらむ
文屋康秀(ふんやのやすひで 生没年不詳 平安前期 六歌仙) -
月(つき)見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
大江千里 おおえのちさと (生没年不詳 平安前期 三十六歌仙 漢学者) -
このたびはぬさも取りあへずたむけ山もみぢのにしき神のまにまに
菅家(菅原道真 845~903 当代随一の漢学者で漢詩文が多い 天神伝説が各地に残る) -
名(な)にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな
三条右大臣 藤原定方 さだかた (873~932 和歌管弦に秀で延喜歌壇の中心人物の一人) -
小倉(おぐら)山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
貞信公 藤原忠平 (880~949 関白太政大臣 藤原氏全盛時代の基を作った) -
みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ
中納言兼輔 藤原兼輔 かねすけ (877~933 三十六歌仙 延喜歌壇の中心人物の一人 紫式部の曾祖父) -
山里(やまざと)は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば
源宗干朝臣 むねゆき (?~940年頃 三十六歌仙 光孝天皇の孫) -
こころあてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
凡河内躬恒 おおしこうちのみつね (859年頃~925年頃 古今集撰者の一人 三十六歌仙) -
有明(ありあけ)のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし
壬生忠岑 みぶのただみね (860年頃~920年頃 古今集撰者の一人 三十六歌仙) -
あさぼらけ有明(ありあけ)の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪
坂上是則 さかのうえのこれのり (生没年不詳 平安前期 三十六歌仙 蹴鞠でも知られる) -
山川(やまがわ)に風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり
春道列樹 はるみちのつらき (生没年不詳 平安前期 志賀の山越えの歌) -
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
紀友則 きのとものり (生没年不詳 古今集撰者の一人 貫之の従兄弟 三十六歌仙) -
たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに
藤原興風 ふじわらのおきかぜ (生没年不詳 平安前期 三十六歌仙 藤原京家) -
人(ひと)はいさ心も知らずふる里は花ぞ昔の香に匂(にほ)ひける
紀貫之 きのつらゆき (868年頃~946年頃 古今集撰者の一人 真名序の執筆者 三十六歌仙) -
夏(なつ)の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ
清原深養父 きよはらのふかやぶ (生没年不詳 平安中期 三十六歌仙 清少納言の曾祖父) -
白(しら)露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける
文屋朝康 ふんやのあさやす (生没年不詳 900年前後の人 康秀の子) -
忘(わす)らるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかな
右近 うこん 生没年不詳 (平安中期 右近衛少将藤原季縄の娘) -
浅茅生(あさぢふ=あさじう)の小野のしの原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき
参議等 源等 ひとし (880~951 嵯峨天皇の曾孫) -
しのぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
平兼盛 かねもり(?~990 三十六歌仙 後撰集の代表的な歌人の一人) -
恋(こひ=こい)すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
壬生忠見 みぶのただみ (生没年不詳 忠岑の子 三十六歌仙) -
ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
清原元輔 もとすけ 908~990(深養父の孫 清少納言の父 三十六歌仙 後撰集の撰者の一人) -
あひ(い)見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり
中納言敦忠 藤原敦忠 あつただ(906~943 時平の子 忠平の甥 三十六歌仙) -
あふ(おう)ことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし
中納言朝忠 藤原朝忠(910~966 定方の子 三十六歌仙) -
あは(わ)れとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
謙徳公 藤原伊尹 これただ (924~972 忠平の孫 摂政太政大臣 後撰集撰進を指揮) -
ゆらのとを渡る舟人かぢを絶え行くへも知らぬ恋の道かな
曾禰好忠 そねのよしただ (生没年不詳 9世紀中後半の歌人 曾丹とも 奔放な歌で知られる) -
八重(やへ=やえ)むぐら茂れるやどの寂しきに人こそ見えね秋は来にけり
恵慶法師 えぎょうほうし (生没年不詳 平安中期) -
風(かぜ)をいたみ岩打つ波のおのれのみくだけてものを思ふ頃かな
源重之(?~1000年頃 清和天皇の曾孫 三十六歌仙) -
み垣(かき)もり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつものをこそ思へ
大中臣能宣朝臣 おおなかとみのよしのぶ (921~991 神宮祭主 三十六歌仙 後撰集の撰者の一人) -
きみがため惜(を=お)しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
藤原義孝 よしたか (954~974 謙徳公の子) -
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじなもゆる思ひを
藤原実方朝臣 さねかた 貞信公の曾孫 (?~998) -
明(あ)けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
藤原道信朝臣 みちのぶ (972~994 歌名が高く『大鏡』などに逸話が見える) -
なげきつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る
右大将道綱母 みちつなのはは (936年頃~995 藤原倫寧の娘『蜻蛉日記』作者) -
わすれじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな
儀同三司母(ぎどうさんじ=藤原伊周の母 高階成忠の娘 貴子 儀同三司は太政・左右大臣に準ずる意) -
滝(たき)の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
大納言公任 藤原公任 きんとう (966~1041『和漢朗詠集』などの撰者) -
あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびのあふこともがな
和泉式部(978年頃~不明 大江雅致の娘 『和泉式部日記』作者 奔放な恋愛で知られる) -
めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜はの月かな
紫式部(973年頃~1019年頃 『源氏物語』作者 藤原為時の娘) -
ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
大弐三位 だいにのさんみ (999年頃~不明 藤原宣孝・紫式部の娘 藤原賢子) -
やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
赤染衛門 あかぞめえもん (958年頃~不明 赤染時用の娘 実父平兼盛 『栄華物語』作者とされる) -
大江(おおえ)山いく野の道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立
小式部内侍 こしきぶのないし (?~1025 橘道貞・和泉式部の娘) -
いにしへの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな
伊勢大輔 いせのたいふ (生没年不詳 大中臣輔親の娘 能宣の孫) -
夜(よ)をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ
清少納言 せいしょうなごん (966年頃~1025年頃 清原元輔の娘 『枕草子』作者) -
いまはただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな
左京大夫道雅 藤原道雅 みちまさ (992~1054 伊周の子) -
あさぼらけ宇治(うじ)の川霧絶え絶えにあらはれわたる瀬々の網代木(あじろぎ)
中納言定頼 藤原定頼 (995~1054 公任の子) -
うらみわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそ惜しけれ
相模(995年頃~不明 源頼光の娘 相模守大江公資と結婚し相模といわれる) -
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
大僧正行尊(1055~1135 園城寺長吏 天台座主 三条天皇の曾孫) -
春(はる)の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
周防内侍 すおうのないし (生没年不詳 周防守平棟仲の娘) -
こころにもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜はの月かな
三条院(979~1017 第67代天皇 冷泉天皇の皇子) -
あらし吹くみむろの山のもみぢ葉は竜田の川のにしきなりけり
能因法師 のういんほうし (988~1050年頃 俗名橘永愷) -
さびしさにやどを立ちいでてながむればいづくも同じ秋の夕暮
良暹法師 りょうぜんほうし (?~1064年頃 比叡山の僧 祇園社別当) -
夕(ゆう)されば門田の稲葉おとづれてあしのまろ屋に秋風ぞ吹く
大納言経信(源経信 1016~1097 歌道の家六条源家) -
音(おと)に聞くたかしの浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ
祐子内親王家紀伊 ゆうしないしんのうけのきい (生没年不詳 平安後期の歌人 一宮紀伊とも) -
高砂(たかさご)のをのへの桜咲きにけりと山のかすみ立たずもあらなむ
権中納言匡房 大江匡房 おおえのまさふさ (1041~1111 匡衡と赤染衛門の曾孫) -
うかりける人を初瀬の山おろし激しかれとは祈らぬものを
源俊頼朝臣 としより (1055~1129 歌道の家六条源家 経信の子 金葉集撰者) -
ちぎりおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり
藤原基俊 もととし (1060~1142 藤原道長の曾孫 保守派の代表的な歌人といわれる) -
わたの原(はら)漕(こ)ぎいでて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波
法性寺(ほっしょうじ)入道(にゅうどう)前関白太政大臣(藤原忠通 1097~1164) -
瀬(せ)を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
崇徳院 すとくいん (1119~1164 第75代天皇 保元の乱に敗れ讃岐に遷る) -
淡路(あわじ)島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関もり
源兼昌(生没年不詳 宇多源氏 12世紀初めの歌人) -
秋風(あきかぜ)にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔 さきょうだゆうあきすけ 藤原顕輔 (1090~1155 歌道の家六条藤家の祖 詞花集撰者) -
長(なが)からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝(けさ)はものをこそ思へ
待賢門院堀川 たいけんもんいんのほりかわ (生没年不詳 源顕仲の娘 崇徳院の母待賢門院に仕えた) -
ほととぎす鳴きつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる
後徳大寺左大臣 ごとくだいじさだいじん 藤原実定 さねさだ (1139~1191) -
思(おも)ひわびさても命はあるものをうきにたへぬは涙なりけり
道因法師 どういんほうし (1090~1182年頃 俗名藤原敦頼 90歳過ぎまで歌壇で活躍) -
よのなかよ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成 こうたいごうぐうのたいふしゅんぜい藤原俊成 (1114~1204 千載集の撰者) -
ながらへばまたこの頃やしのばれむうしと見し世ぞ今は恋しき
藤原清輔朝臣 きよすけ (1108~1177 六条藤家顕輔の子 俊成と並び称された) -
よもすがらもの思ふ頃は明けやらでねやのひまさへつれなかりけり
俊恵法師 しゅんえ (1113~1191年頃 源俊頼の子 東大寺の僧) -
歎(なげ)けとて月やはものを思はするかこち顔なるわか涙かな
西行法師 さいぎょう (1118~1190 俗名佐藤義清 平安末期の代表的な歌人の一人) -
むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮
寂蓮法師 じゃくれん (1139年頃~1202 俗名藤原定長 俊成の甥・養子 新古今集撰者の一人) -
なには(わ)江(え)のあしのかり寝のひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき
皇嘉門院別当 こうかもんいんのべっとう (生没年不詳 源俊隆の娘 崇徳院の妃皇華門院に仕えた) -
玉(たま)の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする
式子内親王 しょくしないしんのう (1149年頃~1201 後白河天皇の皇女 賀茂斎院) -
見(み)せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色は変らず
殷富門院大輔 いんぷもんいんのたいふ (1131年頃~1200年頃 後白河天皇の皇女殷富門院に仕えた) -
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろにころもかた敷きひとりかも寝む
後京極 ごきょうごく摂政前太政大臣 藤原良経 (1169~1206 忠通の孫 新古今時代の代表的な歌人) -
わが袖(そで)は潮ひに見えぬ沖の石の人こそ知らね乾(かわ)くまもなし
二条院讃岐 にじょういんのさぬき (1141年頃~1217年頃 源頼政の娘 新古今時代の代表的な女流歌人) -
よのなかは常にもがもななぎさ漕ぐあまのを舟の綱手かなしも
鎌倉右大臣 源実朝 さねとも (1192~1219 頼朝の子 3代将軍 金槐集の撰者) -
み吉野(よしの)の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒くころも打つなり
参議雅経 藤原雅経 まさつね (1170~1221 飛鳥井家祖 新古今集撰者の一人) -
おほ(お)けなくうき世の民におほふかなわが立つそまに墨染の袖
前大僧正慈円 じえん (1155~1225 藤原忠通の子 良経の叔父 天台座主『愚管抄』著者) -
花(はな)さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
入道前太政大臣 藤原公経 きんつね (1171~1244 西園寺家祖) -
来(こ)ぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ
権中納言定家 藤原定家 (1162~1241 百人一首撰者 新古今集撰者の一人・新勅撰集撰者) -
風(かぜ)そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
従二位家隆 藤原家隆 (いえたか 1158~1237 新古今集撰者の一人) -
人(ひと)も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は
後鳥羽院(1180~1239 第82代天皇 新古今集撰進を指揮 承久の変の後隠岐でも改訂を続けた) -
ももしきや古き軒ばの忍ぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰集 雑 1205)
順徳院(1197~1242 第84代天皇 承久の変で佐渡に遷る)